先日は、親族の葬儀で全日お休みとさせて頂きました。
亡くなった親族は、私と殆ど歳は変わりません。人生どこでどうなるかなんて分かりませんね。過去、現在、未来なんていう時間軸を持ち合わせていなければ、もしかしたら、死に対する考え方も変わるかも知れません。
「死んだ」「死ぬかも知れない」の間こそが「普通」ってことですからね。
私は、昔はよく自分の人生を試すことをしていました。
例えば、登山なんかでも、わざと落ちたら死ぬ様な、危険な足場のルートを選んだり、自転車で下り坂を激走して、スピードを出した状態で、ハンドルから両手を手放しして「コケたら死ぬぞ?どうせ死ぬなら今死んでみろ」みたいな感じで試してみたり。
なんていうか、もう一人の自分を試しているかの様に、命ごと「何か」に完全に預ける感じかな?
死なないってことは、「何か」が生きる方を選んだという結果。
こういう話をすると、本当に死んだらどうするんだ?と聞かれることはありますけども、死んだら生きていた過去なんて知る由もなし。そして未来もない。
どんなにリスク管理をして生きても、どんなに健康管理をして生きても、死ぬ時は死ぬ。そして、どんなに不摂生をしても、死なない人は死なない。
じゃあ、自分はどの位置にいるのかな?という部分を探るには、両者の端を確認してからじゃないと分かりませんよね?

例えば、自分の中で、絶対的に嫌いな事があったとして、それはどの部分まで嫌いなことなのか?という問いに答えられる人は殆どいません。
「嫌いだから」という感覚にはおそらく間違いはないのでしょうが、しかし、それがどの程度嫌いなのか?という部分を探りきれていない。
私が良く引き合いに出すのは、「人を殺すことは良くない」というのは、殆ど全員がそう思っているでしょう。では何故、人を殺す事が世の中で消え去らないのでしょうか?
先進国の国民でも実行できた国はありませんし、もはや国家ですらそうですよね?
結局のところ、殺す=良くないというのは、何かの「理由」が絡むと、それを条件に良くない事が良いことに変化してしまうからです。
この理由というのが、本当の理由だったのならまだマシです。しかし、SNSに代表される様に、多くの理由は自分で調べ、確信を経るという過程を省き、他人に与えられた価値観を自分としている事が非常に多いのです。
自分の価値観というのであれば、嫌いならその嫌いなことについて、徹底して嫌いな理由、それとは逆の「嫌いなことの好きな部分」も同じく思考しなくては、本来自分がどの位置にいるのか探れていないはずです。
皆さんがこのブログを読まれているということは、画面の文字背景はおそらく白に見えている。
っが、本当にそれが白なのかどうか?という問いに、自信を持って絶対に白だと答えられますか?
どこかで、多くの人が白だと見えているはずだという常識的な学習を、脳がしていませんかね?
少なくとも、白と黒を徹底して見比べて考察してからでないと、「これは白だ」と答えられないはずです。
私なら「真っ白=黒が全く混ざらない」と解釈すれば、このブログの背景は「限りなく真っ白に近い黒」と答えると思います。
ドットの間は目には見えにくくとも黒ですからね。
そこまで考えるの?と言われそうですが、実は自分の価値観形成というのは、殆どの物事で他人に勝手に与えられているものです。
学校の教育が最たるもので、この画面背景を「真っ白ではない」と答えたら、集団社会では「白だろ!」と批判を浴びてしまいます。多様性の片鱗すらもない社会が現実。
私がもしも、義務教育課程の教員であったなら、絶対に白であるという理屈が説明できるまでは「黒ではない」と答える様にと教えると思います。
何故なら、自分でそれを見つけるまでは確定して欲しくないから。
自分の人生を生きるというのは、子供の頃は親の価値観を学び、大人になれば他人ではない、自分の価値観形成をすること。
この作業はとてつもなく面倒な作業なのですが、自分の身の回りの社会の人々が「白だろ」と言っているから「自分も白だと思う」という意見は、時に人を殺すことも正当化してしまう理由の根本なのです。
だから、生きることも死ぬことも、いや、生きることすらも死ぬことすらも、自分で考えたいから私は試したいわけです。
結果、私は生きているんですけども。
